今回はスキーの原点ということで、スキーを日本に伝えた人物を紹介します。
その方の名前は
「テオドル・フォン・レルヒ」
です。
レルヒは1969年8月31日、当時のオーストリア・ハンガリー帝国のプレスブルグ(現在はチェコスロバギアのブラチスラバ)に生まれました。
ブレスブルグはウィーンに近いチェコとの国境の近い街です。レルヒ家は代々貴族で軍人の家柄であり、プレスブルグやプラハの学校を卒業後、国家試験を受けてウイナー・ノイスッタトのテレジア士官学校に入学しました。レルヒは抜群の成績でウィーンの参謀学校(陸軍大学)に入学しました。1869年に同行を卒業後、パリに留学したのち、ブコビナにあるクツエルノウィッツの参謀将校となりました。
その後、少佐に昇進され、1910年日本に派遣を命じられました。当時40歳位でありましたが、スポーツが万能で、フェッシング、水泳、フットボール、馬術、弓術、短距離、槍投などをマスターしていました。
その中でもスキーは国家森林監督官の称号を受けており、リリエンフェルト・スキー術の創業者ツダルスキーの優れた弟子の一人であり、オーストリア陸軍のスキー利用に大きな貢献を果たしました。
レルヒが日本に派遣を命じられたのは、日露戦争で強力な日本陸軍の視察が目的であり、当初はスキー指導といった目的ではなかったようです。結果的にレルヒはスキー板を2台持って行ったため、スキーを伝えることになりました。
当時の日本陸軍は八甲田山で雪中行軍で大量遭難が発生し、雪に悩まされていました。そんな時、北米からスキー板が送られてきたものの、使い方がわからず、倉庫にしまわれてしまいました。それでスキーについて研究していた高田師団がレルヒにスキー指導を依頼したのがきっかけと言われています。
レルヒが高田に到着すると、早速スキーの指導を行いました。その結果、軍人よりも民間で利用した方が効能が高いと考え、スキー講習会を新潟や長野で行いました。
これによりスキーが民間に普及され、日本陸軍が行った業績の中でも特筆すべきものではないかと思われます。
レルヒは1年間高田で指導したのち、北海道の旭川でも同じ軍隊にスキー指導を行いました。
レルヒは日本で一通りスキー指導をすると、山に登り滑走を繰り返しました。高田では南葉山から妙高山へ、北海道では羊蹄山へ生徒と引率して登り、最終指導を行っていました。
また横浜にいる時は富士山登山も行っています。
ところで日本での2年間の滞在を終えると、オーストリアに帰国後、欧米大戦に参加し少将に昇進したものの、生活は厳しく、好きな美術品を日本で売却しました。その美術品は日本スキー発祥記念資料館にあります。
また今回参考にした本はこちらです。

レルヒ陸軍少佐の本。また日本のスキー史についても述べています。
『スキーの原点を探る レルヒに始まるスキー歴史紀行』
長岡忠一。
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価格:1,892円 |
楽天で調べてみると、意外と多くありました。
著者の長岡忠一さんは日本のスキーの発展に貢献した長岡外史将軍の孫にあたります。
なので日本のスキー史についてはかなり詳しく情報が書かれております。
特にスキー発祥の地でもある高田(上越市)の情報はかなり豊富ですね。
こちらの本を読んでいると現在でもレルヒ陸軍少佐出身のオーストリアとも交流があるみたいで。
上越市と姉妹都市みたいですね。
いつかオーストリアにも足を運んでみたいと思います。
また日本のスキー史については年表でまとめました。
年表はこちらです。
スキー&スノーボードをやる方には是非見てもらいたいページです。
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